その後生きがいをなくしてしまった僕は。飲みたいだけお酒を飲んで、したいだけギャンブルをして、飽きて、しまった。

 

 泣いている女の子が好きだと気づいた。エスとかそういうことではなく、いや、それもあるのだけども。SM的趣向とは関係なく泣いている女の子が好きだ。

 

 

 由来は自分が中学生のころにさかのぼる。文化祭の合唱大会であるリーダー格の女の子と口論になって泣かせてしまった。もちろん泣かせようと思ったわけではないよ、気の強い女の子だったから、彼女。でもびっくりするのはクラスメイト。それまでは静観してたのに、弾みで泣き出した瞬間、みんな彼女の味方になった。傍観者だった大勢は敵になった。もちろん永続的に敵ってわけじゃないけれど。僕は家で、こっそり泣いた。

 日は変わり、部活動の最中。何かの弾みで後輩の女の子を泣かせてしまった。「ああ、またやってしまった」という後悔とともに、胸に押し寄せるのは、高まり。平易な言葉で表現するならば"ゾクゾク"した。

 

そんなこんなで、泣いている女の子とは縁が深い。一年前も職場で女の子を泣かしてしまってえらい目にあったし。AVとかではSM的作品にそういった趣向のものが多いからてっきり、そういう性癖だと思っていた。でも、女の子が泣いていることに限定されたものなんだなあとビビっときた。

 暇になると思わぬ自分に気づかされる。

 

 

ああギャンブルしてー。

 

 

 

夜は過ごしやすい

東京に来た。でもバンドはやめた。25年目で初めての自由を手に入れた。僕には何をしたら良いのか皆目検討もつかなかった。

 

やさしい自分でいたかった。この町でやさしくい続けるのはずいぶん難しい。だからといって知っているほかの町でやさしく生きられるか、といえばそうでもない。よく言えば今を生きている。角度を変えれば退廃的に生きている。それは死んでいるのと大差ないかもしれない。生きる。人身事故の知らせ。よぎる。どうして若い命を無駄にするのか。思ったりもする。でも最近は割とわかる。能動的に死にたくはない。誰しもそう。ただ疲弊して、やるせなくて、ぼんやりと憂鬱な朝は、線路に歩みが吸い取られていくような。そのあんばいで死んだり、死ななかったり。それだけなんだろう。僕や生きている人は、たまたま生きているだけなのだろう。

夢想。それは何の意味もないのだ。実行、しなければ。よくもわるくも、なんらかの行動をしなければそのままでいるほかない。6畳の部屋とウィスキー。それが幸せだと感じるのは少しは歳をとったせいだろうか。

 

 

2015年

2015年。僕は疲れてしまっていた。ニュース、音楽、ゲーム、バラエティ番組、何もかもがくだらなく思えてしまっていた。遅れてきた中2病。食うのにも困る人生なのに、どうして、なかなか、僕はまじめになれない。

 

意味のないブログをはじめてみよう。向かう先がない内容だとしても、何かのきっかけになるかもしれない。そんな淡い期待を僅かに抱きながら書いてみようと思う。