夏嫌い、春だけどそれもそれほど好きじゃない(冬や秋もそれなりに嫌い)

 夏が嫌いだから気がつくこともある。ネガティブなイメージは決して悪いことばかりではない。だからこそ見える世界がある。もちろんポジティブなイメージも悪いことではない。でも見ている景色は同じ夏を通しながらも違う。人の心は相成れないのかもしれない。わからん、正しいことは何もわからん。でもわからん僕だから見えることもあるのだろう。

 

言葉がうかばない。あれだけ自分の中にありふれている(と思っている)言葉がうまく紡ぎ出せない。ちゃんと繋いで文章をつくらなきゃ。ちゃんと何かをうったえなきゃ。半端な計算が鎖となって僕の言葉の邪魔をする。弱点は自分の言葉で書けないことだと教えてくれた。大嫌いな人が教えてくれた。本当に嫌なやつだった、いつでも嫌味をいい、かつての自分の栄光に酔い、自分の教師と言う職業に誇りをもてていない。コンプレックスにさえ感じている。少なくともそう見える。そのくせ人の文章にはいちいちケチをつけてくる。学生を小ばかにしている。僕らもそれを馬鹿にし返してやったこともある。今思えば少し似ているから、なのかもしれない。夕焼けを描くのが得意だった。切なさを知っている人だった。

自分の言葉ってなんだ。今書いている言葉も、当時書いていたその言葉も、自分の言葉ではないならば、それはなんなのだろう。わからないまま、大人になった。大人のようなものになった、と言い換えたほうがよいかもしれない。それは大人に限りなく近づきながらも、むしろ一番遠い位置にあるような気もする。近いからこそ届かない。そういう距離感。僕は大人のような道を進んできただけであって、それと大人とは平行線で、交わることがないわけだ。もう後戻りはできないのかもしれない。

 

春の空気が教えてくれる。花の匂い。そよぐ風。高く感じる青空。そういえばあの花はなんという花だろう。しおらしく見えて妙につんざく匂いがする花。通勤途中の僕を見下すように高貴に咲く、緑の中で自分を主張して譲らないあの花。僕は何もモノを知らない。無知識な自分を責めるよりも先に、モノを知る努力をしなければならない。頭の悪い人を見下すよりも先に、自分の頭の使い方をよく考えなければならない。そもそも自分の頭の程度を省みなくてはならない。それらをできないのは自分が弱いからだろう。

 

気づけばどこかで聞いた文句ばかり使おうとする。そりゃそうさ。聞き心地のよい、評価されている文句だもの。僕がそれを使ったところでそれは張りぼてでしかないのに。見せ掛けだけ似せた別物。言葉には背景がある。足らない背景ではそれもよく輝くことはない。何をいうのかよりも誰がいうのかが大事。権力に媚びた嫌なことばだと思っていた。しかしそれは言葉に実を持たせることに真意を置いたことばなのだろうと気づく深夜1時56分。もうそろそろ寝なければならない。

 

いろいろな「~ねばならない」に雁字搦めにされたまま夜の暗さに溶けていく。

 


夏嫌い/キセル